空は・・・２

心に、深い傷を負ったような痛みを感じた。
見慣れたはずの風景が、いつもとは違うように思える。
まるで、全く知らない場所に放り出されたような気持ちだった。
けれど、涙は一滴も出なかった。
 

彼女は通りを歩く男達に声を掛けたかった。
誰でも良い。
自分と友達になって、会いたい時に会ってくれるならそうして欲しいと頼みたかった。
けれど、そう言う訳には行かなかった。
まだそれ位の理性が働いたから。
 

何処をどう歩いたか覚えていない。
 

気が付くと、彼女は品の良いスーツを着た男と隣り合わせにカウンターに座って、
スコッチ・ウィスキーの水割りを飲んでいた。
 

彼は彼女よりもかなり年上に見える。
若々しくはしているが、隠し切れない仕草がそう思わせた。
彼は女性に慣れていた。
言葉に詰まる可憐が楽しめるように、会話を合わせてくれた。
 

普段は余り口にしないウィスキーと、男の香水、漂ってくる煙草の煙が彼女を酔わせた。
ジャズメンが奏でる曲「Moonlight Serenade」が、彼女の頭の中でぐるぐると回る。

So don't let  me wait, come to me tenderly in the june night

I stand at your gate and I sing you a song in the moonlight

A love song, my darling, a moonlight serenade

６月位になったら、二人で何処か行こう。
時間取れる？夜は泊まれるかな？
１ヶ月前には予定を立てておこうね。
僕に任せて。
うまく進むようにするさ。
 

６月になったら、わたしは・・・わたし達は・・・
 

かつては優しく囁いた彼の声が、可憐の心に響き亘る。
 

必ず行こう。
だからそれまでは、僕達の間に、結論は出さないで。
 

「え？」
「ちょっと休んで行かない？」
 

家の近くまでタクシーで送ると言った筈なのに、
目の前には、一目で何の目的で建てられたか分かる建物が聳えていた。
 

「こんな・・・いや」
「君が嫌だったら、本当に休むだけで良いから」
 

体を竦める彼女の肩を、男は抱き寄せた。
顔を背け、強張る彼女の細い顎を掴むと唇を強引に合わせる。
 

違う。
こんなつもりでいたんじゃない。
 

車のドアが一度開き、再びバタンと閉まった。
夜の冷たい風が、彼女の足首に触れる。
 

心を通わせていた彼にでさえ、体は許していなかった。
それなのに、こんな見ず知らずの男に！
 

可憐は男を力一杯両手で叩き押すと、また半分開いたドアから転がるように降りた。
 

後ろから、怒鳴るような声が聞こえる。
でも、彼女は振り返らなかった。

どうかしちゃってる！
わたし、どうかしちゃってるんだわ！
 

ホテル街のネオンから避けるように民家の路地を走り抜け、
見慣れた高いビルを目掛けて走る。
大きな通りに出た所で、思い切り誰かにぶつかった。
男の大きな声が、また彼女の耳に入る。

「ごめんなさい！」

背の高い男から逃れるように走り抜けようとすると、腕を掴まれた。

「い、いやっ！」
 

強い力で腕を引くと、更に強く掴まれる。
彼女は怖さの余り、大声を出そうとして顔を上げた。
 

「可憐！」
 

掴まれていた腕が肩に周り、聴き慣れた声と見慣れた顔が彼女を優しく包み込んだ。

「可憐、どうしました？」
「・・・せ、清四郎・・・」

漆黒の瞳が可憐を心配そうに覗き込んでいる。

ああ、清四郎・・・
 

彼女は脱力するように、清四郎の胸に倒れ込んだ。