ホテルのレセプションパーティーは、着飾った人達で賑わっていた。
会場は蒸し暑く、あたしの心を憂鬱にさせる。
けれどそれにはもう一つ理由があって。それはステージ近くの人物。
背が高くて胸板が厚くて、インテリっぽい男。
周りには女を含む数人がいて、楽しそうに話してる。
あたしを大胆に振っておいて、いい気なもんだ。
うん、もちろん。初めから声をかけようなんて思ってないさ。
あたしは暑さのあまり胸が苦しくなって会場を出る。ロビーの窓際のソファで熱い頬を冷ます。
仕事は終わったも同然。とにかくパーティーに参加すればいいんだから。
母親の言い付け通り、タイトなスーツに適度な高さのパンプス。
ナチュラルメイクに、髪は自然なウェーブで肩に流して。
主催者にきちんと挨拶して、うちのクライアントに愛想を振り撒いて。
それでいいんだ。
ソファに深く座って、カウンターでもらって来たワインを一口飲む。何だか冷え過ぎていてマズイ。
テーブルにグラスを置いて、そろそろ迎えを頼もうかなって思う。
窓の外は夕暮れ。ロビーの照明とビルの明かりが混じり合って、でも綺麗。
ちょっとだけセンチメンタルになってる自分。疲れてる?
ううん、きっとさっき見かけたインテリ男の所為。
最近になって、あのインテリ男の話が魅録によって浮上した。
時宗おじさんトコで忙しくしてる魅録だけど、珍しく電話が来た。
その時に、例の男の話が出て・・・
「へえ。連絡取ったりするの?」
「ああ、まだ繋がってるんだ」
「元気だろ?」
「うん。医者になって親父さんの病院にいるの、知ってるだろ?
何でも大失恋して、その痛手で今でも独身とか」
「ふうん」
「会いたい?」
「まあね。何話せば~、だけど」
「そんなコトないだろ。話題はいっぱいある」
「そだね」
魅録、あたしが学生の頃あいつに振られたの、知らなかったかな。
でも魅録との電話で、結構普通にあいつと話せちゃうかもって本気で思えた。
悠理様を振っておいて、よくもそんな大恋愛ができるもんだって、おかしくて思わず独りで笑ったほど。
それだけ、あたしの恋は遠い過去になってた。
お前なんていなくっても、こうして元気にしているし特別な感情なんてもうない。
大人になったあたしを見ろってんだ。
その・・・大失恋で忘れられない恋心だって普通に相談できちゃうんだろうな、あたし。
時間って、スゴイ・・・
そう思いながら、あたしは感傷にひたる。
あれは二度目の高等部三年の卒業近くだった。
今まで勉強を見てくれたお礼にランチをごちそうして、その後ちょっと街中を散歩して。
帰り際に“また二人で会える?”って言ったの、どっちだったかな。
仲間達には内緒で何回かデートして、でも。
ある日あいつが言ったんだ。
「友達でいよう」
って。
やっぱり友達でいよう。まだ僕達はその方が良い。
あたしは、突然の言葉に体中が心臓みたいにバクバクして、理由を訊かないで“うん”って言った。
そして震える手を差し出した。
「最後だから」
あいつはあたしの震える手を困ったように見つめてから手を出した。
互いの手は、ただ触れただけだった。
そして卒業式があって、みんなバラバラになった。
それ以来、ちゃんとした形で会ってない。
だって一度は恋人になった男女(深い関係にはならずとも)が、お友達に戻れるワケないじゃん。
まあ、あるとしても、その時の想いの深さによるんじゃないのか?後は、それだけ割り切れるとか。
吹っ切れるとか・・・分かんないよ。
でもあたしは無理だった。
そうか、あれからあいつ、大恋愛したんだ・・・
そしてあたしは現実に引き戻された。
そろそろ帰ろうと思って携帯電話をバッグから出してメールのチェックをすると、魅録からメールが入っていた。
“今日のパーティに清四郎も参加してるはず。会えた?”
って。
見かけたよ、そう返信しようとしたけど手が止まる。
「こちらのお席、よろしいですか?」
突然声をかけられて、顔を上げるとさっきのインテリ男が立っていた。
「久しぶり」
声も出ないほど驚いてると、目の前のソファに座り込む。
「さっき会場で見かけたんだ。後で声をかけようと思ってたらいなくなっていて。
探しに出たらここにいたから。元気だった?」
「・・・うん」
まるでちょっとの間会わないだけみたいな雰囲気。
「そう、良かった。魅録からいろいろ聞いてはいたんです、悠理の事。
剣菱で頑張ってるって。学生の頃とはかなり変わったって。本当でしたね」
すっかり見違えて、綺麗なお嬢さんになったね。
信じられないようなセリフがあいつの口から出た。
「はは・・・」
気持ちがスゴク焦っちゃって、何かあたしも言わないとって。
でも、ちっとも頭が働かない。
昔から、そう。こいつの前だと頭が回んないんだ。
「清四郎も、元気そう」
これが精一杯の言葉。
「ええ、おかげさまで。」
ナンだ、あたしったら。
もう平気、普通に会話がバンバンできちゃうって思っておいて。
ちょっとテンパってる。
言葉が、出てこなかった。
清四郎も。じっとあたしを懐かしそうな優しい目で見つめて。
引き込まれるような漆黒の瞳は、昔と変わっていなかった。
あたし達、言葉をなくしたまま暫く見つめ合っていた・・・
その内、誰かが清四郎を会場の方から呼んでいた。“菊正宗さ~ん”って、女の声で。
「相変わらずもてて」
「悠理ほどではないですが」
声の方へ笑顔で手を振って。そんな顔、初めて見たよ。
「知り合い?」
「仕事のね」
「仕事って、さ・・・」
「すみませんが、そろそろお先」
やっと会話ができそうだったけど、彼女と二次会?
清四郎はシックなスーツの内ポケットから手帳を出して何か書き込むと、ピリッて音を立てて破った。
「後で電話ちょうだい」
斜めに破られた紙には携帯電話の番号。
“うん”って喉の奥で返事した。
「じゃ、また」
そう言って素早く立ち上がる。
あたしは・・・笑顔で見送った。清四郎が、知らない女とエレベーターに乗るまで、ずっと。
エレベーターの扉が閉まる瞬間、目が合ったような気がした。
手元の紙切れには懐かしい文字。清四郎って名前と携帯番号の数字。
ちっとも変わってない、四角い形の文字。
指で文字をなぞると、ちょっと哀しい気分になった。
だからその紙切れを、バッグの中の手帳に挟み込んだ。
そうして、数日経った。数日が数週間になった。
けど、自分から電話をかける気になれなかった。
その事で魅録に相談もしなかった。そんなコトしたって。
それにあれは、社交辞令みたいなもんさって思えたから。
自分からかけなければ、かかってくる事はない電話なのだしね。
なんだかんだとあの日から一ヶ月以上経ったある日、携帯電話に登録だけしておいたあいつから電話がかかって来た。
「全然電話をかけてくれないでしょ。そっちの番号訊かなかったし。
だから、もしかしてと思って昔の番号にかけてみたんです」
「ははは・・・」
「番号、変えてなかったんだ」
「うん」
それは木曜日の夜だった。
外科学会の定例総会が終わったとか何とか。帰りのタクシーの中からだった。
耳を澄ませると、タクシーが走るタイヤの音が聴こえそうで。
車窓から見える街並みも想像できた。
「悠理?」
返事したきり黙ってたら、通話の確認みたいに名前を呼んだ。
「だから携帯番号変えて、いちいちみんなにお知らせするのも面倒だろ?
番号もメアドも変えてないと、お友達がお客様になる可能性もあるんで」
「へえ~、悠理からそんなセリフが。驚いた」
「一応、仕事してますから」
クスリって笑う声が聴こえたような気がした。
「で、どうしたの?」
「ん、うん」
清四郎の、電話の理由を訊いてみる。
すぐに答えが出ないみたい。緊張してるような、息を飲む気配が伝わる。
「近々、会えるかな?」
「あたし?」
「ああ」
「何か用事?」
「用事って言うか、ずっと会ってなかったから、いろいろ話がしたい」
「うん、まあ、いいけど」
「明後日の夜とか、どう?」
「う~ん。待って。また後で電話する」
「あ、ちょっ、ちょっと、待って。今タクシー降りるところで。ちょっと待ってね。
精算をしましてですね、降りますから」
実況中継かよ。
運転手との会話や内ポケットから財布を出す音や、カザゴソとした雑音。
一回電話切りゃいいのに・・・
終いにはドアが閉まるリアルな音、バタン。
「すみませんね」
「酔ってるの?」
「全然。少しは口にしましたけど、飲んでないです」
「えっと、さっきの続きだけど。必ず明日には返事するから」
「本当?」
「今度は電話しま~す!」
「あはは」
ナンだ、この会話。大人気ないな~。
魅録ともそうだけど、友達って不思議。すぐに昔に戻れるんだ。
友達?
あたし、戻れてるの?
自分に質問して、また会話を途切れさせる。
「悠理?ねぇ・・・あの。本当は今すぐにでも会いたい。何処にいるの?」
「え?あたし?家」
「家って?剣菱?」
「あったり前じゃん。あたしがひとり暮らしできるかよ」
「良かった。ちょうど今、着いたところです」
「へ?」
ええ~!?
通話したまま電話を持ってウロウロ・・・どうなって・・・
「悠理、悠理。ドアを開けて」
聞こえて来る声は電話からなのか、ドアの向こうからなのか。
ドアを開けると、清四郎が電話を耳にしたまま立っていた。
もう、通話機能は必要ない。
「あ、あの」
「入って良い?」
「うん。あ、やっぱりリビング行こう」
「部屋はダメなの?」
「だって、一応女だし。彼女に悪い」
「彼女?」
「ほら、この間の」
「ああ。だから仕事関係」
「あ、そっか。そう言っていたね」
「うん。だから入っていい?」
「でも・・・他に彼女さんいたら、面白くないと思うよ」
悠理・・・そう言って清四郎は部屋に入って来た。
「悠理に彼氏さんがいるなら、入れない?」
「いや、そんなのいないし。もう、入ってるじゃん!」
「このハデハデな雰囲気、変わってませんねー」
首をクルクルさせながら、あたしの部屋を見回している。
清四郎の落ち着いたスーツから、外気の匂いがする。
ちょっと懐かしい匂い。
「僕は恋愛していない。悠理は?」
「あはは。まさか、あたしが」
それから清四郎はあたしを見てにっこりと微笑んだ。
まるでホッとしたような、そんな笑み。
だからちょっとイジワル言ってみたくなる。
気持ちに少し余裕ができたのかも。
「忘れられない恋をしたって、魅録から聞いた」
「え?」
「その痛手で、今でも独りでいるって」
びっくりしたような表情から、柔らかな、何かを懐かしむような優しい表情に変わる。
こんな顔、学生の時見た事あったかな?でも、あたし、知ってる。
「今でも、忘れられないんです。その女性の事」
「へ、へぇ~」
その恋に付いて知りたいと思う。
なんなら、女としてちょっとしたアドバイスだってしてあげられる・・・そう思っていたけど。
あたしの知らない清四郎の恋愛を知りたいって思うと同時に、聞きたくない気持ちもある事に気付く。
でも清四郎はあたしの腕を取り、まるで自分の部屋のように二人掛けのソファに座らせて自分も座った。
「コーヒーでも持って来る?」
「いえ、いらない」
やっぱり、聞きたくない。けれど清四郎はその恋についてまた口を開く。
「とても短い恋愛でした。特別な愛情表現も言葉も交わさなかった。
彼女はさっぱりした夏の風のような人で、いつも僕を吹き抜けて行った」
「うん」
「手が届きそうで、なかなか届かない。悪戯に手を伸ばしても、その風は留まる事を知らないように吹き抜けた」
清四郎は自分の両手を膝の上で広げ、確認するように裏に返したりした。
「僕から振ったんです。その女性の事」
「ふうん・・・」
「彼女は、まだ僕と言う丘に留まりたくないのかなって思えたから」
本当はもっと傍にいて、同じ時間を共用して分かり合えたらって。
でもその風は、僕の周りを吹くだけだった。
吹くだけで、僕を知ろうとしないように思えた。
「僕達は二度目の高等部三年生だったし、まだまだ恋愛は先に延ばしても遅くはないとも思えた」
「へ?」
「だから“友達でいよう”って言いました。まだその方が二人には良いって判断したんです」
「・・・・・」
「でも結局、卒業と共に離れ離れになって。凄く後悔しました。
僕も、その彼女もとても忙しくて。共通の友達から彼女の事を聴く度にただただ悔やんで」
何時か、僕に留まっても良いって思える時が来たらそうして欲しい。
何時までも待っているから。
「そう伝えるべきだったと悔やみました」
「清四郎」
「でも都合良過ぎですよね?そんな約束」
あたし、だったの?
そう訊こうとして、たったそれだけ訊こうとして、でも言葉にならなかった。
大学から全く別々の生活をして、仲間とも何となく音信不通になって。
違う友達や恋愛ごっこみたいな事もして来たけど、何だか違うって思えた。
だからいろんな事が長くは続かなくて。
今じゃあ、仕事以外の付き合いは魅録だけになってた。
その魅録だって頻繁じゃないんだから。
「あたしから離れている間の清四郎の出来事について、訊くつもりはないよ。でも」
「・・・でも?」
「あたしだって忘れた事はなかった。もう大丈夫って思えてたけど、そうでもなかった」
「悠理」
急に目の奥が激しく痛くなって両手で覆ったら、清四郎があたしをギュって抱き締めた。
「僕を許してくれる?」
許すも何も、高等部の時だってずっと・・・ずっと清四郎といたいって思ってたよ。
言ってくれれば良かったのに。
清四郎だって、あたしの気持ちを訊くべきだったでしょうに。
「もう、独り善がりにならないんなら」
「そうしたら、許してくれるの?」
「約束してくれる?」
「約束する」
「約束」
「約束」
あたしも清四郎をギュって抱き締める。
何だか、無駄に遠回りしてる。
でもあたし達らしいのかな、これって。
「キスして」
あたしらしくないコトも言ってみる。
清四郎の体が熱くなったように感じる。
何も言わないで、清四郎はあたしの唇を探している・・・
触れ合ったのは、実は初めて、だけど懐かしい。
キスって、どこか懐かしい感じがするんだね、清四郎。
初めてな感じがしないこの温もりは・・・ずっと求めていたからなのかも知れないね。