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拍手も嬉しく思います。
さて、本日も続きをアップです。。
*この作品はメンタルヘルス的な要素や現実とは違う症状を描いております。
また年齢制限がある(若い方には不適当な)文章も含んでおります。
その為、このような文章をご理解いただける方のみご覧下さい。
十代のお若い方やメンタルヘルス的・年齢制限を感じさせる表現を好まれない方はご遠慮下さい。
読後の苦情も受けません。
病院前のタクシープールに降り立つと、急激に吹雪が強まった。
春らしい陽気が暫く続いたが、選りに選って今日がこんな天候とは、と思う。
細やかな雪が激しく舞い、幾つも頬を叩く。
“別棟の受付でも通るよ”と魅録が言った。だから総合案内場所で受け付けなくても良いのだ。
僕は病院のエントランスを避け、奥の施設らしい建物へと向かう。
自宅を出る時も天気は余り良くはなかった。けれど雪の気配なんて感じられなかった。
郊外とは言え、随分遠くまで来てしまったように思える。
アスファルトに響くブーツの底が、積もる雪の邪魔をしているようだ。
帰りまでには、少し積もるのかも知れない。
僕は別棟のエントランスに入り、小さな受付の窓をノックする。
すぐに開けられ、中から若い女性事務員が顔を出した。
僕は自分の名前と悠理への面会を告げる。
「剣菱さんとの関係は・・・お友達、ですか?」
遠慮がちに彼女は訊く。
「ええ。学校の」
「少々お待ち下さい。今病棟に連絡します」
彼女は机の上の電話の受話器を取って内線をかける。
何コールかで相手が出たようだ。
「剣菱さんへ菊正宗さんがお見舞いに来ました。男性の方で、学校のお友達だそうです。
今、大丈夫ですか?はい。とりあえず、病棟ですね」
電話の遣り取りで、面会の自由が利かないのが感じられる。
院内は暖かく、僕はコートを脱ぐ。
「お待たせしました。とりあえず三階の病棟へ向かって下さい。そこで看護師が待っています。
幾つか説明があるかも知れません」
「分かりました」
「受付のすぐ横にエレベーターがあります。ご利用下さい」
「ありがとうございます」
「帰りにまたこちらに寄って下さい」
「分かりました」
僕は言われたようにエレベーターに乗る。
小さくても清潔で、ホテルのような雰囲気だ。
三階のエレベーターホールに降りてしばらく立っていると、中年の女性看護師が近付いて来た。
「菊正宗さん?」
「はい」
「こんにちは。すみませんがちょっとこちらでお話をしたいのですが。良いですか」
「ええ」
彼女は僕を談話室に案内する。簡単なソファセットがあった。
「こちらに」
「はい」
向かい合って座ると、看護師は口元に事務的な笑顔を作った。
「失声症の事はご存知ですか?」
「ええ。先日こちらに来た松竹梅さんから説明されました。彼は僕の友達でもあります」
「そうですか。良かった。剣菱さん、まだ声が出ないんです。感情表現も、うまく行きません」
「感情・・・声が出ないだけではないんですね。彼からも知らされてはいたんですが。
失感情症とは考えられませんか?」
「ええ。院長先生からはそのような説明は。
ただ、何らかのショックやストレスによって、感情表現が上手くできない可能性はあります」
「彼女の症状に、覚悟してます。今日は会えますか?」
「はい。先程菊正宗さんがお見舞いに来た事は告げました。剣菱さんには了解を得ています。
今はまだこのような症状ですが、会う事はできます。もちろん」
今度の笑顔は自然だった。作ってはいない。安心したような表情だ。
「剣菱さんの個室はすぐそこです。面会時間は午後一時から五時までです。
時間は充分にあります」
「ありがとうございます」
看護師は僕に向かってもう一度微笑むと、エレベーターに向かった。
僕は方向を悠理の病室に変える。深呼吸をして呼吸を整え、開け放されているドアへと向かう。
三度ドアをノックして、病室を見渡した。
「悠理」
彼女の名前を呼ぶ。
彼女は、多分魅録の時と同じように、正面の窓際の椅子に座っている。
レースのカーテンが閉められていて、その前で平行に座っている。こちらを見ていない。
「入りますよ」
僕は彼女の前に進む。一瞬肩が強張ったように見えたが、表情のない目線が僕をしっかり捕らえていた。
「良かった。拒まれるかと思ってたんです。でも会ってくれた」
彼女に変化はない。
けれどスウェット生地のクリーム色のスカートを、軽く掴んでいる。
コートをベッドの手摺にかけ、脇の丸椅子を彼女の正面に持って来て腰をかけた。彼女との距離は数十センチ。
「今日ここに来るの、随分迷いました。悠理の症状は、僕達の間で起こった事が原因だと思ったからです」
彼女をまっすぐ見つめる。彼女も見つめ返す。
けれどその瞳には、感情と言うものがない。
「僕と会う事で、悠理の症状は悪化すると思いました。でも・・・このままではいけないと考え直しました」
彼女は変わらず僕を見ている。
僕は返事や表情の変化を気にしないまま話し続ける。
まるで・・・自分に対して事実確認するように。
「悠理は急速に病気が進行して行った。あれ以来、僕はまともに悠理と話してはいない。そうだよね?」
「正直、今回の事に関しては・・・あの出来事も含めて、初めは混乱したし腹も立った。
僕に相談して欲しかった。あんな事になる前に・・・話し合うべきだったと後悔もした。
売り言葉に買い言葉、普段の僕達の喧嘩だ。もっと冷静になるべきだった」
「でも、あんな風にしか、悠理はできなかったんだね?」
彼女は、じっと僕を見つめている。表情に変化はない。
「相談する事も、後に話し合う事も、悠理にはできなかった。僕の所為だろうか?」
「セックスを知りたい。そして最初の相手に僕を選んだ。理由は、分からない。
事を終えて・・・その後の自身のケアができなかった。違う?」
「僕達の不文律・・・暗黙の了解。つまり、二人だけの秘密を隠し通すのが困難だった。
僕のようには行かないでしょ、悠理は。メンバーの前で普段通りにいられなかった。
顔に出さないように、声に出ないようにする為に、感情を押し殺して・・・今回のような症状になった」
僕は彼女に顔を近付け、目を覗き込む。彼女は視線を逸らさない。
スカートを握ったままの手に、僕は自分の手を重ねた。
「辛かったね」
瞳に変化がないまま、涙が一滴零れる。
僕は頬に指で触れ、涙の後を辿る。
感情は、彼女の中でちゃんと生きているのだ。
レースのカーテンから弱い陽射しが入る。
僕は席を立ち、カーテンを開ける。
さっきの吹雪は落ち着き、雪雲の間からうっすらとした夕方の陽射しがこの窓辺に届いている。
「そっとしておく事が、悠理にとって良いのかと最初は考えました。
距離を置き、僕と会わない方が最善なのかと。でも違う。そうじゃない。
悠理は僕と向き合わなくてはいけない。向き合って、心の内を話さないと病気は治らない。
僕はそう思った。そう思ったんです」
振り向くと悠理は陽射しを見つめている。
柔らかな光の線の中で、幾つもの塵が螺旋を描いているのが見える。
「今日ここで会って気が付いたんですけど」
僕は席に戻り、もう一度真正面から彼女を見つめる。
彼女はまだ、光を追っていた。
「悠理も、僕と向き合う事を望んでいたのではないかと」
僕の言葉に、彼女はゆっくりと視線を僕に移す。
瞳の奥に、一条の光が宿っていた。